所感

生活の所感を投稿します。

appropriate distance

1.適切な距離というものは視覚に関するものだけではなく、人間、禽獣、生き物の様々な主体の活動に於いて普遍的に当てはまる言葉であると思う。

あるアーティスト達の展覧会に付けられたタイトルである。

 

例として、絵画なら寄りで見れば見るほど情報が細分化されておき、画面まで数センチに近づけば絵画たらしめる構成、配置、モチーフといったシステムは分解され、ただ油絵の具や樹脂といった物質が顔を覗かせる。これがオフセット印刷物なら網点と呼ばれるドットが現れる。

 

逆に引きで見れば、描かれた各部位が距離という媒体によって接合され、イメージというシステムへ統合されてゆく。例え細部が大胆に省略されていても、引きで見ると精巧な具象絵画と変貌する事がある。

更に距離を取れば、額縁、隣合う絵画との関係性と、単体の絵画という枠組みを離れ、ある空間全体の空気感が伝わってくる。

 

といった具合に、距離というものはある事象と事象とを分解したり、あるいは統合させ、拡散させる働きを持つ。ある目的の為(ここではアート鑑賞)には、都度、対象との適切な距離を保つ必要がある。

 

 

適切な距離、これは物体のみならず、我々との関係性といった不可視なものへも働く。

 

再び例として帰宅途中に発見した野良猫とのケースを挙げよう。

距離20メートル。互いに認知するか、しないか、したとしてもそれは見なかった事にできる距離である。

5メートルまで近づけばどうだろう。猫は私を認知し、関心を持つ。

突然の来訪者、野良猫は警戒しこちらの様子を伺う為立ち止まる事もあろう。互いに立ち止まって見つめ合うこともあるだろう。

距離を3メートル、2メートルまで縮めると彼/彼女は逃げ出す。拒絶により関係が分解された。

 

距離によって互いの存在がぼやけたり、鮮明となったり、分解される一連の流れである。

 

人間と人間に於いても、ざっくり上記の例は当てはまるのでは無いだろうか。距離よる関係の接合と分断。

 

 

2.ただ、アート作品と異なり、生き物と生き物では時間軸が存在する。

我々は常に動いており、立ち位置を変更する。互いの承認を経て、近しい位置に立てども、もう一方が異なる時間でも同じ位置に立っているとは限らない。ある関係性を保つには、相手に合わせた相応の動きが必要な事は言うまでもないだろう。

 

また、人間と動物となら、物理的な距離は友好を示す凡よそのバロメーターになるだろうが、人間となら時間軸に加えて精神的な距離があるのも非常に面白い。

 

仮にセックスワーカーと物理的に接触する距離となれども、魂は恐らくそうでは無い。逆も然り、想う人は近くにはいないが、心は共にある、という事も有り得る。

 

3.距離によって分解、統合、拡散が起こるということ。生物間では距離を近づけるには承認またら は拒絶が起こるということ。働きかけが無ければ互いに同じ距離を保つことは出来ないこと。肉体と精神の距離は異なるということ。

 

4.私の所感。やはり、Kとの件以降、拒絶をひどく恐れている。私と人との精一杯の距離とは、手が届かないが声は届く、くらいの距離感。言葉が届かない程の距離は寂しいけれども、自ら手を差し伸べる勇気もない。

完全に立ち尽くしているわけでもなく、最低限のステップは踏もうとしている。

今の私は人と上手く距離を縮めることが苦手である。

そういう訳もあって、あくまで物質であるアートに没頭しているのかもしれない。自分で勝手に近づいたり遠のいたりしても、誰にも文句は言われない。

 

適切な距離、あなたは保てているでしょうか。