所感

生活の所感を投稿します。

【小説】屋上のりんご頭のうさぎ

 僕は人生の潮時を悟った時から死の境界線が見える。道路を通過する大型車の前面、ホームの黄色い線の外側、非常階段の手すり、すべて赤いフレームとして視覚可されるんだ。

 「死ってなんだろう、ミサ」

 人智を尽くしても死の外堀を埋める事は出来ても核心には誰一人迫ることができない。死とは死んだ人にしかわからない。しかし死人に口はない。この矛盾は未来永劫解決不能な謎。

 「なんでみんないつか死ぬのに、誰も死を語ろうとしないんだろう。死はいつも僕らの目の前にあって、僕は死神が見えるんだ。その姿はグリム・リーパーみたいな鎌を持った姿ではなくて、陽炎のように空気が揺らめいているだけ。その陽炎がある日、死を考えてる人を通過した時、人は自殺するんじゃないかと思う」

 そう、僕は死神が見えるんだ。世界が色味を失ったその時から、断続的にそいつはやってくる。僕にとって死神は身近な存在。友達とも言ってもいい。

 宇宙、死と同じく永遠の謎。僕は赤いフレームに一歩近づく。深淵を覗くとかすかに月明かりに照らされた底が見える。赤いフレームというのは人間の危機回避本能の可視化なのかもしれない。

 フォイエルバッハは自然必然性の内部における意志、その論のなかでこう言った、自殺は人間の本質"矛盾に満ちた諸現象"の部門だと。人間の自愛ともっと鋭く矛盾するか、またはむしろ矛盾するかのように見えるかするが、しかももっぱら自愛から起こるような諸現象または諸行為の部門に属すると。人間が自分の中に死の為の根拠と材料とをもっているばあいだと。

 僕にとって死の材料はなんだろう。ただ潮時と考えている。なぜ潮時なんだろうか?世界の流れについていけなくなったからだ。日進月歩でテクノロジーは進化し、文化は波のように絶えず押したり引いたり変化を伴っている。僕の周りの人間も絶えず流動している。観測者でいることに疲れたのかもしれない。

 「こうして死の境界線に近づくと安心するんだ。何か大事なものに一歩近づいているような気がして。その大事なものは位置エネルギーを伴ってしか見えてこない。もっと大事なものに近づける場所にいこうよ」

 そういうと僕は非常階段から手すりのない屋上へ移動した。周辺には高い建物が無く、練馬から新宿までを一望できる。ジャケットのポケットからタバコを取り出して火をつけた。

 「今日もセカイが良く見えるね。ミサ」

 10階部分に相当する屋上、その縁には赤いフレームがより発光して見えた。その光はぎらぎらと光っていてまぶしさを感じた。でも僕はそのまぶしさは孤独という暗黒を照らすものに感じた。

 強く発光する赤いフレームに近づくと、それの抵抗感というものは、大事な人に告白するようなためらいと緊張もたらした。でもなんだかフレームを超えるのはそこまで難しい事ではないと思う。なぜなら僕は何度か告白を経験してきたからだ。それと同じような抵抗感なら、気を強く持って勢いよく飛び出せばさしたる問題ではない。

 死、という不条理、狂気はいつもセカイに取りついている。

 

 屋上のりんご頭のうさぎが縁を飛び越えるとライオンになり、それはおもちゃのアヒルとなった。レンガの地面に激突すると六本木のサラリーマンのCGとなってペストマスクへと姿を変えた。